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うつで退職、妻とは離婚協議…どん底になった僕の生きづらさの核心「子どもの頃からずっと無理をしていた」
子どもが生まれたあとに分かった発達障害、うつ病、休職……。ASD(自閉スペクトラム症)・ADHD(注意欠如・多動症)の当事者でライターの遠藤光太さん(31)は、紆余曲折ありながらも子育てを楽しみ、主体的に担ってきました。うつと休職を繰り返し、娘が2歳になるころ、会社をやめる決断をした遠藤さん。今は良好な妻との関係も「別居合意書」を持ち出すほど険悪になっていました。小学生の娘、妻との7年間を振り返る連載6回目です。(全18回)
保留された別居合意書
夫婦関係が冷え込んだまま固まっていました。 別居や離婚に向けた話し合いの機会を持つと、僕はたびたび黙り込んでしまいました。言いたいことはたくさんあるのに、頭の回転が追いつかないのです。後に「WAIS-3」という知能検査を受けたとき、僕は「ワーキングメモリ(作動記憶)」の数値が、他の能力よりも大分低いことがわかりました。 ワーキングメモリとは、パソコンのそれと同じで、情報を一時的に記憶し、処理する能力です。重い話し合いで言葉が出づらかったことに、後から検査を受けて納得しました。ワーキングメモリの容量の少なさに加えて、精神状態が悪く、話せば話すほど頭のなかが暗くなっていきました。 日記や小説を書くことにすがっていた僕も、別居合意書を書くのはさびしいものでした。しかし、別居をまず議題にしなければ収まりがつかないほどに、関係は悪い。夫婦各々の親をも巻き込んだ話し合いが行われていました。 別居合意書の草稿を妻と共有して互いに合意していましたが、「うつ状態はいつか必ず良くなる。僕が正常になってから正式に別居の判断をしよう」といったん保留させてもらいました。 重大な決断を避けることは、うつになったときの僕の鉄則です。僕たち夫婦にとって、関係が最も冷え込んだ時期でした。妻には、自分と関わらせてしまったことに対して、根本的に申し訳なく思っていました。 それ以降、話し合いはなるべく減らし、現状維持に努め、ただ時間が過ぎていくのを待つばかりでした。僕は気分の落ち込みがひどく、それでも生活のために休んでいられません。お互いがぎりぎりの生活を保ちながら、娘を育てていました。
幼い頃から身についていた「過剰適応」のくせ
思えば僕は、子どもの頃からずっと無理をしていました。 まず、幼稚園と小学校で登園拒否・登校拒否になりました。僕の最も古い記憶は、幼稚園のテラスで部屋に入れずに泣いているときの光景です。 発達の特性も影響し、集団生活やルールになじむことができませんでした。母は焦り、僕をなんとか幼稚園や小学校に行かせようとしました。小児科や児童相談所に行っても、行きたくない原因が何なのかわからなかったそうです。 母は僕を叱って学校に行かせました。教室にいると過呼吸のように息苦しくなり、授業中に飛び出して、トイレに駆け込みました。パニックになっていたことを、今でも鮮明に覚えています。 母は、当時を振り返って「悪いことをした」と言ってくれています。当時は、いまほど情報もなく、発達障害について知るのは難しかったと僕も思います。 小学校3年生の頃から、学校に毎日行けるようになっていきました。それが良かったのかどうか、いま振り返ると疑問符がつきます。僕はいつも緊張し、自分の周りにバリアを張っていて、人に本心を打ち明けられない子どもになりました。 本当は1人で過ごすのが好きでも、本心を押し殺して、集団に溶け込む努力をしました。不安が強い日でも、「行きたくない」と口に出すことを避けました。 発達障害の特性は人々のなかでグラデーション状に広がっており、一概には説明できません。僕に限って言えば、生きづらさの核心は、「発達障害の特性があるにもかかわらずそれらを押し殺し、過剰適応するくせがついていたこと」でした。 言い換えれば、「普通」のふりをするくせです。小学校でも、社会人になっても、生きづらさの核心は変わっていませんでした。決して「普通」ではないのに。
自分だけの「普通」がわからない
社会人になってからは、会社に毎日通うことに過剰適応していました。いま思えば、満員電車で触覚過敏に我慢していました。電話が鳴り響くオフィスで「いつも自分が電話を受けなければ」と緊張していました。 父親という役割にも、過剰適応していたと思います。「父親とは強くあるべき」「父親は稼ぎ頭であるべき」といった考えで、勝手にがんじがらめになっていました。 未知の役割に入っていくときに、無理をして誤ったがんばり方をしてしまうくせなのです。元をたどれば、発達特性を持ちながら我慢を繰り返して学校に通った子ども時代に、くせは形成されていました。 学校、会社、家族に過剰適応していると、暮らしがうまくいっているように見えます。しかし僕が「普通」であるように振る舞うには膨大なエネルギーを要しました。 平野啓一郎さんは言いました。「人間は、分人ごとに疲れる。でも、体はもちろん一つしかない。疲労が注がれるコップは一個なんです。会社で、これくらいなら耐えられると思っていても、実はコップには、家での疲労が、まだ半分くらい残っているかもしれない。そうすると、溢れてしまいます」(『空白を満たしなさい』)。僕は無理がたたって、疲労がうつに姿を変え、何度も溢れてしまっていました。
原因を知った僕の対策
発達障害という原因を知ったいまの僕には、対策があります。混雑する時間をずらして通勤したり、許可を得てイヤフォンをつけたりすることができます。知っていれば、子育てでも、得意と苦手を細かく理解し、妻と的確な役割分担ができたでしょう。 見え方や聞こえ方、感じ方、疲労の度合いは他人と比べられません。自分にとっての「普通」があるだけです。 僕は人それぞれに「普通」があることがわからず、多数派の「普通」になれるよう、頑張る道を選んでいました。そしてうつを繰り返してしまっていたのです。闇雲に頑張る前に、まずは発達障害のある自分を理解する必要がありました。
発達障害と自分が結びつき、閃光が走る
苦しい日々に、小さな希望もありました。うつのどん底にいたとき、すがるように書いていた小説が、応募した新人賞で選考の途中まで残ったのです。 受賞には遠かったですが、「読んでくれる人がいる」と知りました。価値がないと思っていた自分でも、「書き続けて、誰かが読んでくれれば、生きていける」と光が差しました。 小説を書き、貪るように読んでいた僕は、『火花』(文藝春秋)で芥川賞を受賞した又吉直樹さんがニュースキャスターに就任すると知り、番組の初回を楽しみに見ていました。 その番組内で偶然、発達障害に関する特集がありました。衝撃を受けました。「これは僕だ」ーー。 朝方まで発達障害について調べ、「カサンドラ症候群」(発達障害、特にASDのあるパートナーを持つ人が周りに理解されずに苦しむこと)も知りました。それは僕の妻の姿でした。「おぉ……」と呻きが漏れて、天を仰ぎました。閃光が走ったような思いでした。 身体の緊張がゆるみ、一縷(いちる)の望みが見えてきました。
引用先:うつで退職、妻とは離婚協議…どん底になった僕の生きづらさの核心「子どもの頃からずっと無理をしていた」(withnews) – Yahoo!ニュース