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息子を不良少年に殺された母親が、苦しみと向き合い続けた22年間

2019.06.26

 「犯罪被害者に終わりも退職もないんです」

 1997年に兵庫県加古郡稲美町で起きた少年集団暴行事件。当時高校1年生だった長男・聡至さんを亡くした、高松由美子さん(64歳)はこう話す。

「秋葉原連続通り魔事件」そして犯人(加藤智大)の弟は自殺した

 事件が発生した当時は、犯罪被害者に対する社会的な保護は現在よりもはるかに弱く、犯罪被害者が別の当事者を支援する場も全国にほとんどなかった。

 高松さんは「息子の死を無駄にしたくない」と、当事者にしか分からない苦しみや悔しさへの精神面でのケアなど、犯罪被害者への支援活動に力を尽くしてきた。想像を絶する経験をした高松さんを駆り立てるものは何なのだろうか。
息子の命は、こんなに軽いのか
 「まさか聡至が突然いなくなるなんて、思いもしなかった」

 高松さんを悲しみのどん底に陥れた事件は、1997年8月23日夜、稲美町の神社で発生した。中学時代の同級生を含む少年10人(当時14~16歳)が、自宅から離れた県立高校で寮生活を始めた聡至さん(当時15歳)を呼び出し、意識不明の重体になるまで集団暴行を加えたのだ。

 少年たちは「付き合いが悪くなった」などと因縁を付けて、鉄パイプや角材で執拗に殴り、動けなくなった聡至さんをバイクでひき、火の付いたタバコを両耳に入れるなどの暴行を1時間以上続けた。その後、彼らは自宅に帰ったり、カラオケに遊びに行ったりした。

 翌朝、目を覚ました高松さんは、聡至さんがいないのに気づき、次男、三男とともに近所を探し回ったが見つからない。そうこうするうち、警察官が高松さん宅を訪れ、「お宅の裏の神社で成人男性が倒れていたのですが、昨晩、この辺りで騒がしかったり何か変わったことはありませんでしたか?」と質問してきた。

 嫌な予感がした。すぐに現場に駆けつけた後、わけもわからぬまま警察で事情聴取を受けた。

 「まさか、聡至ではないだろう」。最後まで半信半疑のままだったが、病院で変わり果てた聡至さんと対面し、現実を突きつけられた。聡至さんの顔はパンパンに黒く腫れ上がり、全身は傷だらけ。

 高松さんは正気を失い、「目を開けて」と声をかけるしかなかった。聡至さんはそのまま9日後に帰らぬ人となった。

 加害者の10人は間もなく傷害容疑で逮捕された。その後、傷害致死容疑で送検され、2人は初等少年院、8人は中等少年院で1年4ヵ月から8ヵ月の保護処分が決定した。 

 高松さんは当時の心境をこう振り返る。

 「まるで聡至がオモチャか何かのようにもてあそばれ、集団暴行で殺されたのに、『明確な殺意が立証できない』と判断され、殺人ではなく傷害致死になったのは納得いきませんでした。それに、刑期もたかだか1年半程度で、すぐに一般社会に戻ってくる。殺された息子の命はこんなに軽いのか、と悔しくてたまりませんでした」。

「不良になられへん子」
 高松さん一家は、稲美町で農業を営んでいる。

 稲美町は人口約3万人で兵庫県の中南部に位置し、田園風景が広がる田舎町だ。事件発生当時は高松さん夫婦、聡至さんの祖父、兄弟2人の6人家族。聡至さんは農業が好きで、将来、農家を継ごうとしていた。

 毎日のように実家のキャベツ畑を手伝い、すくすくと成長した。スポーツ好きで体格も大きく、中学生になってからは野球部に入った。

 だが、中学1年生の3学期ごろから事件の加害者も含めた不良グループと付き合うようになり、変形した学生服を着たりするなど非行に走り始めた。中学2年生になると学校に全く行かなくなり、バイクの無免許運転で補導されたこともあったという。

 中学3年生になるころには、聡至さんは徐々に更正していった。高松さん夫婦の「高校はいかなあかん」との説得に耳を傾け、学校はサボっても塾は休まず通った。野球部の監督が「学校には無理に来なくてもいいから、部活にだけは来なさい」と声をかけ、校内に居場所を確保したことも大きかったという。

 高松さんは当時の聡至さんについてこう振り返る。

 「あの子は、トコトン不良になられへん子なんですよ。なんだかんだ行って田んぼの手伝いや勉強は続けてたし、私にも父親にも絶対に手を上げなかったんです。

 児童相談所に相談した際に、『こういう不良少年は母親を殴るパターンが多いから気をつけてください』と言われましたが、全くそんなことはありませんでした。将来はブドウや果物を育てたいという聡至なりの目標もあり、きっと更正してくれると信じていました」

 ついに聡至さんは中学3年生のクリスマスを境に不良グループとも縁を切り、自宅から離れた県立高校に入学して、寮生活を始めた。

 新しい友達もでき、弓道部にも入って高校生活を楽しみ始めていた。そんな矢先、悲惨な事件が発生した。高松さんは「殺されるために一生懸命更正させたわけじゃない」と悔しさをにじませる。

反省しない加害少年たち
 少年院に入るなど社会的制裁を受け、加害少年らが反省したのかといえば、そうとは言えないのが現実だった。

 加害少年らが少年院から出た日、高松さんは少年たちの親に、彼らを高松さんの自宅へ呼んでもらうように頼んだ。聡至さんの位牌を見て、更正することを誓ってもらうためだ。

 しかし反省はおろか、事件がなぜ起きたのか聞いても、納得のいく返事はない。加害少年の中には「暗くて聡至さんの顔も覚えていない」と言い放つ子もいた。

 事件の供述調書によると、加害少年らは「途中で止めたり、救急車を呼んだりしたら自分もやられるんじゃないか」「自分だけ止めると弱虫扱いされる」という理由で、聡至さんに暴行を加え続けたのだという。

 少年によるリンチは、「ハイになるため」「仲間はずれにされるのが怖いから、なんとなく」というような、被害者からすれば、呆れるほど無責任な動機から実行されることが少なくない。高松さんは加害少年らについて「まるで、自分だけが悪いんじゃないと言わんばかりの態度だった」と話す。

 加害少年らは出所後も同じメンバーで行動するなど反省の色はうかがえず、そのうち3人は集団暴行で再び送検されるという事件を起こしている。

 さらに主犯格だった少年は成人後、地元の後輩に「高松に賠償金払うから30万円よこせ」とからみ、恐喝で逮捕された。その裁判では「高松さんに損害賠償請求されていて、そのお金が必要で脅し取ったんです」と平然と話した。その後も、賠償金を満額支払った加害少年の家族はいないという。
被害者へ向けられる悪意
 事件発生後の高松さんを取り巻く状況は厳しかった。

 小さい町だけに、加害少年や家族と対面することも少なくない。加害少年の親の一人は、高松さんが作ったキャベツを運搬するトラックの運転手だったという。

 「大都会での犯罪とは違い、しがらみの中で生きざるを得なかったんです。代々続いた農業で生計を立てていきたいということもあったし、被害者の自分たちがなぜ逃げなくてはならないのかという思いもあった。何より、加害少年らが反省しているかどうかを見続けてやろうという気が強かったんです」

 しかし、そんな高松さんの思いとは裏腹に、加害少年や家族だけでなく、世間の風当たりも強かった。

 被害者であるにもかかわらず、まるで高松さん一家に責任があるかのようなうわさや中傷が流布した。談笑していると「息子が殺されたのに何のんきに笑っとんねん」と陰口をたたかれたこともあったという。買い物に言っても無視され、挨拶もしてくれない。聡至さんが亡くなったという事実を受け入れなければならない中で、酷すぎる状況だ。

少年院での講演を始めた
 そんな中、高松さんは少年犯罪の被害者遺族からなる「少年犯罪被害当事者の会」の存在を知った。

 当事者の会に参加し、被害者同士で語り合うようになると、精神的に救われるとともに、遺族給付金の存在など犯罪被害者の支援制度も初めて知ることができた。そして2000年から被害者支援の充実や被害者への情報公開を訴える「全国犯罪被害者の会」に参加し、各地の集会に足を運ぶようになった。

 地元の兵庫県にも被害者支援組織が必要だと考えた高松さんは、公益社団法人「ひょうご被害者支援センター」に2002年の設立当時からこれまで17年、役員として参加している。

 2002年当時、被害者遺族が自ら支援組織に参加するのは初めてのことだった。センターは相談員の育成を行うほか、殺人事件などの被害者やその家族に対して、主に裁判傍聴や付き添いなどの支援活動を手がけている。

 高松さんは、実体験を踏まえて支援組織の運営に携わることの大切さについてこう話す。

 「被害者は事件が発生した直後、不眠症になったり、自分の名前も住所も書けなくなったりと、まともな精神状態ではいられません。私自身もカレーを作ろうと思って買い物に出かけたら、何を買ったらいいかわからなくなって、家に戻ったら袋の中が全部お菓子だったということもありました。

 また、事件の後は民事訴訟など様々な手続きもあり、普通なじみのない裁判も続きますから、付き添いがいてくれると本当に心強いんです。

 犯罪被害の苦しみは、当事者にしか分からない部分が大きい。私たちも、もし夫と二人だけで、ほかの当事者からの支援がなかったら、今のようには立ち直れなかったかもしれません」

 さらに、全国の刑務所や少年院での講話も2005年から始めた。再犯した主犯格の加害少年が入っていた少年院の教官が、高松さんの講演活動から少年の再犯を知り、「犯罪被害者の現実について話して欲しい」と依頼してきたのがきっかけだった。

 「当時の少年院は、あくまで『数年間、おとなしく勉強してもらう』ことを目的とした制度設計でした。しかしその教官は、『そうした少年院の実態が是正されない限り、再犯はなくならない』と感じて私に講演を依頼してくれたのです。

 私は自分のような悔しい思いを他の人にしてもらいたくないとの思いで、引き受けました。具体的な犯罪被害者の話を少年たちに聞かせることで、心から反省してほしいと思ったからです」

引用先:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190626-00065448-gendaibiz-soci

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