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焦るのに動けない、引きこもりの現実 不登校経験、フリースクール運営男性の記憶
2019.06.25
川崎殺傷事件や元農林水産事務次官による長男刺殺事件などによって世間の注目を集めている「引きこもり」という言葉。社会と距離を置く人たちをひとくくりにし、危険な存在として意味が書き換えられる向きもある。しかし、安易に引きこもりと犯罪を結び付けていいものか。今回、自ら不登校を経験し、現在は福井県福井市内でフリースクール「福井スコーレ」を運営する小野寺玲さんが寄稿。胸の内を語ってもらった。
私は中学生の頃不登校になり、引きこもる毎日を送っていた。まるで自分一人だけ人の道を外れて悪いことをしている気分だった。私がいるのは獣道で、本来いてはいけない場所。ここ以外のどこかに脱出しなければならないという焦燥感と、それが見つからないという絶望感が混ざり合って、劇薬のように全身を満たしていた。
焦るのに動けない劇薬。あるいは焦るからこそ押しつぶされて動けない劇薬なのかもしれない。私はそこで、何とか生きていた。何とか毎日命をつないでいるという感覚だった。命をつなぐことに罪悪感を抱えながら。
私の引きこもりの日々はそんな風にして過ぎていき、進路を選び、彷徨い、選び、彷徨い、今は不登校の子供の居場所づくりをしている。ハッピーエンド?そんなことはない。幸せを感じることは多くなったけれど、エンドではない。私はあの頃も今も同じように懸命に生きている。同じようにより良い自分を求めながら生きている。ゴールはない。過程だけがある。
私は今でも自分を引きこもり気質だなあとよく思う。体は人々の間にいても、心はどこか遠くにある。仙人のように山奥で、世間を忘れて、自分の興味に従って生きている。
私は自分の経験を一般化したくてこれを書いているわけではない。私が書きたいのは、「言葉」と「日常」についてのことだ。
言葉は魔物のようだ。引きこもりに関する一連の事件の前と後、間違いなく「引きこもり」という言葉の印象が変わった。引きこもりを取り巻く日常は、前と後で何も変わっていないのに、言葉が変わった。そして言葉の変化は視線の変化をもたらし、視線の変化は現実を変える。私が引きこもっていた時に感じていた劇薬ような視線が、自己認識が、間違いなく増大している。
事件を受けて、引きこもっていた人々が、今引きこもっている人々が、自分の経験を語り始めた。過度に一般化され、突出し、負の影響をもたらしかねない言葉に、そうやって解毒剤を打っているのだ。私もそう思ってこの文章を書いた。具体的な一人ひとりの人生を語ることで、「引きこもり」という言葉が指し示す人々に、具体的で多様な人生があるという当たり前の事実を思い出すために。
そして、言葉に振り回されるよりも、日常レベルの取り組みを大切にしよう。本人が元気になれる関係を作ることや、相談場所や居場所を作ること。多様な性質に配慮することや目の前で困っている人を助けること。それぞれの立場でできることは違うだろう。それでいい。
私達はそんな風にしてより良い社会を作ってきたのだ。失敗を山ほどしながらも、苦難に見舞われながらも、晴れの日も雨の日も、それぞれの立場で懸命にやってきた。不登校も、引きこもりも、私も、あなたも、社会も、そういう意味では同じだ。もし言葉を一般化して使うのならば、そんな風に前向きに、建設的に、私達が力を合わせるために使いたいと思う。
福井新聞社
引用先:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190625-00010003-fukui-l18
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