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夫のADHDでホームレスに…「カサンドラ症候群」の妻の「夫を変えた」ひと言
ホームレスからチャンネル登録者数33万人超え(2チャンネル合計)の動画クリエーターになったナカモトフウフ。沖縄での生活、旅行、ファッションなど興味ある事を日々配信する中で、夫・ダイスケさんのADHDに関する動画の再生回数は400万回を超え、注目を集めています。
とはいえ、ここに来るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。妻であるちゃんまりさんがADHDの夫の行動に振り回され悩み苦しんだ日々からどのように脱出したのか『ADHDの旦那って意外と面白いんよ 本気で発達障害に向き合った夫婦の物語』にまとめられました。
本書より抜粋の上再編集した記事からお届けする短期集中連載。1回目はつきあってすぐにADHDを伝えられたこと、第2回は妻のちゃんまりさんがADHDの特性を知って考えた対策についてお伝えしました。ちゃんまりさんの視点でお伝えした2回に続き、第3回は、ダイスケさんの視点で、カサンドラ症候群となってしまった妻のちゃんまりさんから言われた「言葉」についてお伝えします。
ADHDが原因でホームレスに
自分と周りとの違いに気付き始めたのは思春期に入った頃。発達障害で周りとコミュニケーションをうまく取れず、ただひたすらに問題行動と誤解されることを繰り返す日々でした。「親にも迷惑をかけているし、このままじゃマズい」という焦燥感に駆られた僕は、自分を変えるために高校3年の夏に生まれ故郷の沖縄から、単身北海道へ行く決意をしました。
北海道で高校を卒業し、その後は寿司職人として働き始めました。しかし人間関係がうまく噛み合わず、さらには厳しい仕事で体調を崩し、恩を仇で返すかたちで店を辞めることに。その後はアルバイトを転々とする日々。ついには貯金もなくなりホームレスになったのです。
ホームレスでアルバイトを続け、社会生活ができない自分に疲れ果てた僕は、自分がもしかするとサイコパスや自己愛性パーソナリティ障害じゃないかと思い、病院に調べに行きました。診断結果はADHD。このときはADHDのことなどほとんど知りませんでした。
「何かわからないけど俺は障害者だったんだ。異常者じゃなくてホッとした」
このときに僕が感じたのはその感情だけ。自分が異常者じゃないことを知れたというだけで満足だったから、特に治療はうけませんでした。
ADHDは、自分の好きなことには熱中できるけど、苦手なことは全くできないといい特性を知った僕は「とにかく好きなことを好きにやろう」と思い、当時一番好きだったカメラでプロを目指すことを決意。
しかし趣味カメラマンがいきなり写真で飯を食えるはずもなく、再びホームレス生活となるのですが、それも僕には想定内のことだったのです。
自己中なカミングアウト
わけわからん組織で、わけわからん時間の奪われ方をするくらいなら、ホームレス生活の方がまだ夢に集中できる、貯金が尽きる前にプロカメラマンになればいいと思い地道に営業を続けた日々。そして貯金が尽きるギリギリのところでカメラマンとして食べていけるようになり、1年後には自分のスタジオとアシスタントを雇えるようになりました。
プロカメラマンとして順調な生活が始まり、「誰の指図も受けず、組織のストレスにも潰されずにADHDを乗りこなして自立できている!」ほんの少しだけ人生で初めて自信が持てたこの時期に出会ったのが、ヘアメイクの仕事をしていた妻です。
もうADHDを乗りこなしていると確信した僕は、付き合う際に、とても軽々しくカミングアウトしたのを覚えています。
「俺、ADHDだから遅刻とか物忘れが多いと思う! でも仕事も生活も支障ないから大丈夫!」
好きなことを見つけて、どんなかたちでもいいのでそれを続けることで初めてついた自信。その自己肯定感があれば、障害を言い訳にする必要がなくなるので、カミングアウトを容易にすると感じます。
カミングアウトされた人がそれをどう思うかはまた別問題だし、二人で一生を共にすると決めた後の苦しみは、また別問題ですけど。
薬の副作用
交際開始からしばらくして、妻と仲間とともに沖縄に移住し、スタジオを立ち上げました。スタジオ設立のために貯金をほとんど使い果たしてのスタートで、まだまだ稼ぎもない状態。それも既定路線であり順風満帆に感じていたのは僕だけで、相次ぐスタッフの離脱を生み、最終的に妻と僕の二人だけになりました。
ボロアパートを借りて、毎日僕は朝夕に魚を釣り、妻は近所でアルバイト。このときは貧乏を楽しんだ記憶すらあり、ADHDで人間関係が続かない自分を忘れていました。しかし、同棲を初めてからの妻は僕の行動に戸惑うことが多く、次第に「言った、言わない」などの問答が繰り返され、妻を苦しめることになったのです。
自分のせいで愛する妻が苦しむのは耐えられなかったので、カウンセリングや投薬治療を受けて医学的アプローチを試すことにしました。
検査結果は不注意と衝動性の非常に高いADHD。とにもかくにも薬を処方してもらい、藁にもすがる思いで服用することに。
確かに忘れ物などは減った。
人との会話も覚えることができるようになり、発言する前にまず考える。
行動する前にまず考える。
こうした当たり前の行動が少しずつできるようになりました。しかし根本から治ったという感覚ではなく、常に自分の行動・発言に強迫観念や疑念を抱き、「半強制的に薬に自分自身を疑うように仕向けられている」という感覚に近い。発達障害は病気のようには治らないものなので、その現実を知った瞬間でもありました。
妻の一言に泣いた夜
服用する度に仕事への情熱・行動力・決断力が失われ、「自分の感覚が変わっていく恐怖」を感じました。「やれ」と言われた仕事は失敗せずにできるけど、自発的に何かはやりたくない。いや、できない。そんな感覚が芽生えるようになり、薬の服用はやめました。また元に戻る心配はありましたが、仕事への情熱・行動力や「自分の感覚」まで失う不安の方が大きかったから。
もし薬の服用を続けていたら、その違和感の先に世間一般で言う「普通」の感覚があったのかもしれない。でも、世間にとっての「普通」は、僕にとっての「普通」ではなかったのです。
ADHDとしての自分の長所を自認することができ、本当の意味でADHDである自分を受け入れることができた気がします。
薬の服用と通院をやめた後、自分の至らぬ所は自発的に反省するようにし、妻には極力逆らわないという誓いを自分に立てました。
ADHDを本当の意味で乗りこなすには、自発的な気付きが必要です。僕の場合、その気付きを得るためのトリガーになったのは妻への愛でした。
結婚とは、いかなることも二人の問題で、「僕とADHD」という構図ではなく、「僕らとADHD」ということになります。妻は自発的にそれを学び、理解し、僕に教えてくれました。
「これはあなただけの問題じゃない、二人の問題だから二人で解決しよう」
この一言が嬉しくて、夜一人で泣きました。大人になって、人の優しさに触れて泣いたのはこれが初めてでした。妻の理解の上で僕は自分の特性を最大限に発揮することができたのです。
ADHDから自分を守る方法
僕には、あきらめようと思えばいくらでも人生を投げ捨てるタイミングがありました。しかし腐らずに自分と向き合い続けたから、妻と出会うことができました。そして、その妻が僕にとっての最後のピースを埋めてくれたのです。
発達障害によるハンデを抱えた人間が唯一できることは、自分の人生をあきらめずに自分比最大を目指すこと。嘆いても状況は変わらないのだから、自分の好きなこと、好きな方向へ逃げて逃げて逃げまくって、そこを極めればいいんだと思います。
それを理解してくれる人が現れることだって、人生にはあるのです。
もしあなたがいくら理解を示しても、ADHDの相手がいい方向に向かわないケースもあります。そのときは第一に自分のことを考えてください。二人揃って壊れてしまってはもう修復できないので、ときには理解をあきらめて自分が壊れる前に逃げる覚悟も必要です。妻のエピソードからそういった部分もくみ取れるのではないかと思います。
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ナカモトフウフ
2017年から夫婦で動画クリエーターとしての活動を開始。旅行・沖縄での日常・古民家暮らし・ファッション・車・バイクなど興味あることを発信中。中でもA D H Dである夫ダイスケさんとの夫婦の日常を紹介した動画の再生回数が400万回を超えるなど、注目を集めている。YouTubeチャンネルの登録者数は2チャンネル合計で33万人超え。
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『本気で発達障害に向き合った夫婦の物語 A D H Dの旦那って意外と面白いんよ』
交際から合わせて約7年の間に起きたことや学んだことをA D H Dの当事者(夫)とパートナー(妻)それぞれの目線で激白。A D H Dという障害に悩み、向き合い、乗り越えるまでのリアルな日常をマンガとともに紹介している。
引用先:https://news.yahoo.co.jp/articles/0eb87aa4f7e7f11b9fd3b19d00fe0d0d9c802f11