関連ニュース・事件
児童養護施設育ちの男性が「薬物」に苦しむ事情~施設退所後の孤独に耐えかねて薬に手を出した
現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。 今回紹介するのは「児童養護施設出身で、覚醒剤の後遺症で精神科に通ってます」と編集部にメールをくれた、36歳の男性だ。 「ちびまる子ちゃん」や「サザエさん」が映し出す家庭の姿。「こういうのが家族なんだと、ずっと思っていました」とトシユキさん(仮名、36歳)は言う。
育ったのは乳児院と児童養護施設。しかし、大人になって同居した両親は、テレビが描いた理想とは程遠かった。統合失調症の母親はともかく、父親は酒とパチンコがやめられず、トシユキさんの稼ぎをあてにするような人だった。期待を裏切られ、孤独に耐えかねて頼ったのは大麻や覚醒剤。薬をやめてから5年以上過ぎた今も後遺症に苦しむ日々の中、かなわぬ夢と知りながらもこう言わずにはいられない。 「普通の家族との暮らしを味わいたかった」――。
■「水道料金」が高すぎると驚かれた 自分の暮らす施設がどうやら「普通の家庭」とは違うらしいことに気が付いたのは、小学校に入ったころ。社会科の授業で各家庭の水道料金を発表させられ、およそ50人の子どもたちが暮らす施設全体の金額を答えたところ、先生から「そんなに高いわけがない」と驚かれたのだという。 小学校1年生からは、夏休みと冬休みを父方の祖父母の家で過ごすようになった。ただそこでは顔も知らない母親の悪口をたびたび聞かされたうえ、ティシュペーパーでてるてる坊主を作ると「紙を無駄使いするな」、大皿に盛られた料理を食べると「お前ばっかり食うな」と言われては怒られた。「(祖父母の家では)あと何日寝れば施設に帰れるか、そればかりを考えていました」とトシユキさんは振り返る。
指折り数えて帰る日を待ち望んだ施設も安心できる場所ではなかった。ちょうど同じ時期、同じ部屋の中学生から性的虐待を受けた。被害は中学校に入るまで、複数の年長の子どもたちによって断続的に続いたという。 「初めは(行為の)意味がわからず、ただ『苦い』という記憶があるだけ。虐待だとわかった後も職員には相談しませんでした。告げ口をしたらひどいいじめに遭うことがわかっていたから……。同じように口をつぐんでいた子どもはほかにもいたと思います」
■初めて会った父親から言われた言葉 父親と初めて会ったのは、中学3年の進路相談の時期。親子らしい会話もないまま、教師との三者面談の日を迎えた。そこで父親が「息子は高校には行かせません。就職です」と一方的に話すのを黙って聞いていたという。 このときはトシユキさんが施設の職員に進学したいと訴え、公立高校に通うことができた。ただ高校を卒業するときは経済的な事情から「就職が唯一の選択肢」。しかも両親との交流は再び途絶えており、緊急連絡先などが必要な賃貸アパートを借りることもできなかった。就職先は寮付きの警備会社を選ぶしかなかったという。
18歳の春、児童養護施設を退所。トシユキさんは施設での暮らしをこう振り返る。 「周りの子どもたちは親に対してよく『こんなところに入れやがって。むかつく』と怒っていました。でも、僕は物心ついてからずっと施設なので、『こんなところ』と言われても、いまひとつピンとこなかったことを覚えています。 (性的虐待など)嫌な思い出もありますが、両親の反対を押し切って高校に行かせてくれたのも施設の職員でした」 就職して2年。トシユキさんは進学の夢を諦めることができず、警備会社を辞めると新聞奨学生として働きながら物流関係の専門学校に通った。「専門学校を2年間で卒業すると、ちょうど(4年制の)大学を卒業する年齢と同じですよね。普通の家庭で育った人たちと同じ土俵で勝負してみたかったんです」とトシユキさん。
専門学校を出ると、いったん小売り関係の会社に就職。その後、大手自動車メーカーの工場で派遣労働者として働き始めると、1年後には正社員登用試験に見事合格した。 努力が着実に実を結びつつあるようにも見えたが、施設を出て以降、トシユキさんをむしばみ続けたものがあった。底知れない孤独感である。 「誰もいない家に帰るのが寂しくて、寂しくて。嫌なことや困ったことがあっても、頼れる人も、相談できる人もいない。やるせなさが募りました。自分みたいな人間が生きていてもいいんだろうかといつも思っていました」
ちょうどこのころ音信不通だった父親から10年ぶりに連絡がくる。妹が結婚することになったので、両家の顔合わせの席に出席してほしいと言われたのだ。以前、トシユキさんは母親の暴力が原因で生後間もないころに乳児院に預けられたと教えられたが、それとは別に両親と暮らす妹がいることも聞いていた。ただ会うのはこのときが初めて。 その後は親族らの意向もあり、トシユキさんが両親の面倒を見ることになった。トシユキさんは20代半ばにして初めて両親と暮らすことになったのだ。
しかし、病状が悪化していた母親との生活は、たびたび警察や精神科病院を巻き込んだトラブルに発展。父親はトラック運転手だったが、ギャンブルが原因の借金が2000万円もあることがわかった。両親の尻ぬぐいに追われるトシユキさんに対し、父親は労をねぎらうどころか「俺は施設に(入所費用として)金を払っていた。だからお前は俺が育てたようなものだから」とうそぶいたという。 このころ、トシユキさんは父方の祖父母に仕送りをしたこともあった。愛情深いとはいえない家族になぜそこまで尽くすのか? 私が尋ねると、トシユキさんはこう答えた。「家族として認められたかったんでしょうね。父から連絡があったとき、僕はうれしかったんです」。
■人との「距離感」がつかめない もともと人との距離感がつかめず人間関係はつまずきがちだった。トシユキさんは知人や同僚に施設で育ったことや両親の虐待について包み隠さず話すのだが、その際に相手にも「自分のすべてを受け入れてほしい、自分のことを一番に考えてほしい」と際限なく求めてしまうのだという。多くの場合期待は裏切られる。「“ほしいほしい病”ですね」とトシユキさんは自らを分析する。 トシユキさんは明言しなかったが、「極端な寂しがり屋」「周囲の歓心を買いたがる」という性質は、彼の生い立ちとも無縁ではないだろう。
家族との関係も同じだった。冷静に考えれば20年以上も交流がなかった家族との絆を結びなおすことなど容易ではない。にもかかわらず、トシユキさんは家族に受け入れてほしい、ただその一心で全精力を傾けた。 そして案の定期待は打ち砕かれた。妹の結婚がほどなくして破綻したのだ。トシユキさんにしてみると「妹を守るために、両親と同居までしたのに」という思いがあった。当時は正社員になったことによるプレッシャーも重なったという。期待が切実だった分、失望も大きかった。妹の離婚をきっかけにトシユキさんの中で何かが破綻。その後は坂道を転げ落ちるようにあらゆる薬物に手を出した。
最初は知人からもらった向精神薬などの処方薬。続いて市販の風邪薬やせき止め薬、脱法ドラッグ、さらには大麻、覚醒剤に依存した。次第に食事を取れなくなり、「殺される」といった被害妄想にとらわれるように。周囲に助けを求めるメールを何通も出し、返事がないと「皆殺しにしてやる」「死ね」といったメールを送り付けた。この間、精神科病院に入院したり、リハビリ施設に通ったりしたが、薬はやめられなかったという。 結局20代後半は薬物漬け。蓄えも失い、正社員の仕事もふいにした。30歳を過ぎたころに薬物を断つことができたのは、知人が過剰摂取で亡くなったことがきっかけだった。加えて地元自治体が自立支援などを目的に開設している通所施設が、トシユキさんにとって安心できる“居場所”となったことも転機になったという。
「そこは、僕が行くと『おかえり』と言って迎えてくれるんです。まるで普通の家のように」とトシユキさんは言う。 ■障害者枠で働きながら生活保護を併用 ただ今も幻覚や幻聴などの後遺症は深刻で、何種類もの処方薬の服用が欠かせない。障害者手帳を取得し、障害者枠で働きながら生活保護を併用しているが、年収は180万円ほどで暮らし向きは楽ではない。障害年金を受給できないかと申請したこともあったが、窓口で薬物使用の後遺症は支給の対象にはならないと告げられた。
トシユキさんは編集部に取材依頼のメールを送った理由について、「児童養護施設のことをもっと知ってほしかったから」と言った。 トシユキさんに言わせると、児童養護施設に対する理解は進みつつあるとはいえ、「いまだに施設のことを孤児院と呼んだり、養護学校と勘違いしたりしている人もいる」。また施設出身者が経済的な理由から大学進学を断念せざるをえない現状についても、もっと広く知ってほしいと訴える。 そして何よりトシユキさんが望むのは、施設退所後のアフターケアだ。
「18歳で身ひとつで社会に放り出される不安と孤独がわかりますか? 頼れる親族がいないと携帯電話を買うのも、アパートを借りるのも難しい。おのずと人生の選択肢は減りますよ。よく施設出身者は『男はヤクザ、女は風俗』と揶揄されます。もちろん全員がそうなるとは限りませんが、そういう傾向は間違いなくあると思います」 トシユキさん自身、施設退所後も職員たちとなんらかのつながりがあれば、最悪薬物に頼ることまではなかったのではないかと思っている。
最後にトシユキさんの“家族”の今に少しだけ触れよう。母親はすでに亡くなった。父親とも別々に暮らしており「次に会うのは葬式のとき」と決めている。妹とも疎遠になったという。 孤独を感じないと言えばウソになる。一方で年明け、トシユキさんには楽しみにしていることがひとつある。ここ数年、自身が育った児童養護施設から年賀状が届くようになったのだ。当時の職員もまだ残っており、うれしくて、懐かしくて毎年返事を書く。でも、こちらから年賀状を出したことはないという。なぜ? と尋ねるとトシユキさんはこう答えた。
「こっちから出したのに、(施設から)来ないと寂しいじゃないですか」 本連載「ボクらは『貧困強制社会』を生きている」では生活苦でお悩みの男性の方からの情報・相談をお待ちしております(詳細は個別に取材させていただきます)。こちらのフォームにご記入ください。
引用先:児童養護施設育ちの男性が「薬物」に苦しむ事情~施設退所後の孤独に耐えかねて薬に手を出した(東洋経済オンライン) – Yahoo!ニュース